「意識高い系」が忌避される理由を日本文化の特徴と絡めて考えました

引用:Flickr

いま、いわゆる「意識の高い」会社でインターンをしています。余り詳しくは言えないのですが、知り合いにはガイアの夜明けとかに出てきそうな感じだよね、と言われました。同時に、「うつせみとは正反対の会社だよね。なんで入ったの?」とも。

結論から言えば、怖いもの見たさです。意識が高い人たちって普段どんなことをしているんだろう、というのが気になったからでも、行きたい業界とは全く異なるメンタリティっぽかったからでもあります。就職前に軽く別世界を見学しようという物見遊山的な甘い考えで入ったのですね。

で、まだインターンをはじめてそんなに経っていないのですが、既に色々な違和感を覚え始めています。この違和感の正体が、私たちが漠然と「あいつ本当意識高いよな」と揶揄する時の冷笑の源ではないかと思ったので、少し突っ込んで考えてみることにしました。

「意識が高い」人の特徴とは

まず、「意識が高い」と言われる人の特徴を簡単に挙げてみます。

  • 物事の見方が大局的である(「これからの××業界は〜」「世界情勢的には〜」)
  • ビジネス用語(特に英語由来で、元々は一部業界で使われていたもの)を好んで使用する(「コミットする」「リスケして」)
  • ポジティブな野心を抱いており、それを隠すことがない(「将来的には起業したいです!)」
  • ビジネスに関する学びに積極的である(「先日上場企業の社長の講演会へ行きました!)」
  • 人脈を大切にして、様々な業界・立場の人と積極的に関わりを持とうとする
  • 「挑戦」や「目標」「ビジョン」という言葉が好き
  • これに加えて、GoogleやAppleといった海外のブランド的大手IT企業を目標にしている色が濃いな、というのが私感です。

    いかがでしょうか。他にも色々と要素はあると思いますが、大体こんな感じではないでしょうか。

    まとめると、「ビジネスに対する情報感度が高く、ポジティブで積極的であり、仲間意識の強い人たち」ということになるかなと思います。仲間意識、というのは主に使っている言葉で推し量ることができます。深く排他的なコミュニティであればあるほど、仲間内の言葉、即ち隠語が発達するのです。

    意識が高いとなぜウザいのか

    いわゆる「意識高い系」の使う言葉がムカつく、という人の心理はここにあると思います。隠語はあるコミュニティの内側と外側を分ける明確なラインです。たとえその言葉の意味が分かったとしても、それを普段使わない人と使う人との間には大きな隔たりがあります。「意識高い系」にムカつく原因のひとつは恐らくこれでしょう。

    そして、この隠語文化にはもうひとつ大きな問題点があります。

    隠語文化は濃くて深いコミュニティ、即ちムラ社会を象徴するものです。そこでは自分がどんな行動をするかではなく、一体どんな役職についているか、例えば親方であるとか村長であるとか、はたまた部長である、課長であるといった肩書が重視され、その関係性の中で各々の立場が決まっていきます。部長とはたとえ会社の外で出会っても「部長お疲れ様です」と挨拶をしますし、親方は一線を退いても親方と呼び慕われます。

    しかし、本来ならば上に挙げたような特徴を持つ「意識高い系」は西洋的な主義・思想を志向しているはずなのです。

    なぜなら彼らが目指す「先進的なIT企業」とは西洋的な思想の産物であり、大抵の企業が実力主義であることをよしとしているからです。「意識高い系」の企業では若い人々の活躍が強調されます。それは今までの年功序列制・主義を打ち破り、個人個人の力や能力を重視しようとする、強い方向性を持っています。

    ところが、蓋を開けてみれば彼らの意識の根底にあるものもまた前時代的な「ムラ社会」主義なのです。

    どうしてこんなことになってしまうのでしょうか。

    「借り物」文化

    散々ドヤ顔で語っておいてなんですが、こうしたことは何も私が考えたわけではありません。丸山眞男という政治学者が、もう随分前に日本人の特徴として述べている文化そのものです。結局日本の「先鋭」たちのメンタリティは、そこからなにひとつ変わっていない、ということです。

    こうした矛盾は、日本の借り物文化に根ざしています。要は、「この主義は先進的だなあ」「この機能は便利だなあ」と思うと、単純にそこだけ切り出してさっくり自分の物にしてしまう、ということです。時に全く相反する二つを同時に取り込んだり、あるいは自分たちが元々持っていたものと矛盾していても、気にしません。

    文明開化後の日本は、この精神性のお陰でぐんぐん成長しました。ところがある主義や制度を取り入れる時、それが生まれてきた背景を全く無視してしまうということは、本当にその主義制度を自分のものにできたことにはならないのです。

    ここでもう一度、「意識高い系」の話に戻ります。

    パワーランチ」という言葉があります。元々は「ランチをしながら会議をする」ことでした。そうすることで時間が節約できますし、食事をしながらだと和やかな空気になるので、打ち解けて話すことができます。

    元々は、ランチの時間を削らなければならないほど忙しい人たちが考案し、意外と良いじゃんということで広まったものだと考えられます。

    ところが今「パワーランチ」という言葉で検索をかけると、「パワーランチを企画してみよう!」「パワーランチってどんなことを議題にすればいいの?」「パワーランチの時にはどんな人を呼ぶのが良いの?」といったhow toが並びます。

    なんかパワーランチってものが良いらしい、じゃあやってみようかという、それが生まれてきた背景や存在する意味をそぎ落としてとりあえず取り入れようとする精神の典型例ではないかと思います。

    矛盾に気づかない人たち

    こうして取り入れられた「パワーランチ」は、根本に何の思想も精神も持っていないので、他の主義や精神とぶつかることがありません。またその必要性が省みられることもないので、「パワーランチをやってみたいなあ。議題はどうしよう」ということになってしまうのです。

    同じように、全く別々の矛盾する精神を同時に内包して平気でいる、という場面はインターン中に何度も目にしました。

    日本人の精神性と言ってしまえばそれまでですが、恐らく「意識高い系」の人たちは彼ら自身の情報感度が高いがために余計にそれが顕著になってしまうのでしょう。そして、その矛盾をなんとなく匂いで感じ取った人たちから「意識高い系(笑)」と揶揄されてしまうことになるのです。

    勿論、「意識高い系」の特徴は上であげたものばかりではありませんし、揶揄される理由もこれだけではないと思います。けれど、こうした矛盾が根底にあるのは確かだろうな、とインターンに参加してみて気が付いたので、自分なりに整理して言葉にしてみました。