ひとりの目に見えるマイノリティが、代表者として扱われてしまう話について

随分久々の記事になった気がします。実はここ数ヶ月ほど、忙しかったこともあって、LGBTに関わる活動に積極的に参加するのを控えていました。もっと正確に言うと、私自身が「個人」としての経験や考えを暴露・表明するかたちでLGBTに関わることを避けていました。それというのも少しだけ「自分のこと」としてLGBTを語ることに疲れてしまったからで、充分休憩した今はそろそろ再開しても良いかなあと思えています。

ただ、せっかくなので活動していた期間、そして休息期間に感じた・考えたことはここに書き残しておこうと思います。私の場合はごく小さな規模の体験でしたが、たとえばテレビやインターネットで「顔を出し」て活動をしているあらゆるマイノリティ当事者のひとに共通しうる話なんじゃないかと思っています。

色々と「疲れた」理由はあったのですが、その中でも最も大きかったのが「簡単にレッテルを貼られるプレッシャー」です。

「アセクシャルのひと」として話すこと

はじめまして、アセクシャルのうつせみです」という自己紹介から入って自分について語ることは、親しい誰かにカミングアウトするのとはまた別種の勇気を必要とします。理由は色々とあるのですが、私の場合は「アセクシャルを初めて知りました」「アセクシャルの人と初めて会いました」という方が相手のことが非常に多かったので、何か不用意な発言をしたらアセクシャルというセクシャリティ全体への誤解を招いてしまうのではないか、という緊張感が常にありました。実際に私に質問をされる方も「アセクシャルの方って××なんですか?」と物凄く大きな主語で話されることが多かったので(それはある程度仕方のないことでもあるのですが)、そのたびに「他の方は分かりませんが、私は〜」と訂正を入れるのは結構大変でした。

私個人を構成するアイデンティティは他にも色々とあります。たとえばショートカットだったり、眼鏡をかけていたり、映画が好きだったり、文学部に通っていたり。けれどそうしたアイデンティティと比べてセクシャリティや国籍、出身地といった、本人と強く結びついたアイデンティティは、なぜかある一人の言動が、同じアイデンティティを持つ人全てに拡大解釈されがちです。

「ショートカットの人間はクズ」「丸眼鏡の奴は馬鹿」とは言われないのに、「××国民はゴミ」「あのセクシュアリティの奴らは頭がおかしい」という人はすぐに現れます。冷静に考えれば自分の意思で選択できないアイデンティティよりも好みの問題のアイデンティティの方がその人の性格がよく表れる筈なのに、少し不思議な話なのですが、とにかくそうしたレッテル貼りをされることはよくあります。

「顔出し」することの勇気

そんな中で、たとえばテレビ等で自分のマイノリティ属性とセットで顔を出されて発言している方を見ると、本当に凄いなあと思います。私のように「質問者さん数人対ひとり」や「インタビュアーさんと一対一」あるいは「不特定多数の読者対半匿名の自分の記事」の中でほそぼそと関わりを持っているだけでも物凄いプレッシャーです。その上、相手の反応を見て、もし勘違いをされているようであれば、その場で修正が効きます。記事寄稿の場合はそうはいきませんが、自分の納得がいくように最初から最後まで書かせてもらえるので、あらゆる「レッテル」を防御することができます。ところが、それだけ万全を期して「アセクシャルのうつせみです」と語り始めても、未だに勘違いをもとにしたレッテルを貼られることがありますし、その度にひやりとします。言葉の端と端を切り取られて、真意とは外れた解釈をされることもありました。もちろん、私自身の考えや表現の甘さが原因だったこともあるのですが。

言い訳や「誤解の訂正」が効かない場で自分の顔を出して話す人は、もっと大変だろうなあ、と思っています。特に「顔の見える誰か対匿名」という状況が簡単に悪意に満ちた言葉を生むのは誰もが知っていることだと思います。「わざわざこんなところに出てきて喋っているのだから、さぞ目立ちたがり屋なのだろう」と、最初からうがった目で見られることもあるでしょう。

多くの人の目がある場所に「個人」として出てくるひとすべてへ、尊敬と感謝の眼差しを送りたいなあ、と、改めて思ったのです。